重秀寺のご案内

ご挨拶

重秀寺は港区白金の高台に佇む
臨済宗妙心寺派の禅宗寺院です。
来たる2026年に開創400年を迎えます。
都心にありながら四季の自然と心の静かさを
感じられる場、禅や茶をはじめとした
教養文化を学ぶ場として
これからも大切にしてまいります。

現住職

光定元開(みつさだげんかい)

縁あって26歳で得度。那須雲巖寺にて修行。
平成三年四月に重秀寺に入寺。同年十月に住職拝命。
開創400年に向かってお寺を整備中。

重秀寺の由来・歴史

1626年 麻布今井寺町に開創

当山は、江國紹巴禅師が寛永三年(1626年)に麻布今井寺町(今の六本木三丁目あたり)に草庵を結び、その後縁あって旗本上田重秀公の菩提寺としたのが始まりです。
元禄七年(1694年)町医者吉田玄信が百姓地であった現所在地一帯を買い入れ、上田家菩提所として寄進され、現在に至っております。

※開祖は諱は絶巴、字は江國、姓は大江と謂う。日向國の人にして生所其の他の事は詳しからず。同国佐土原大光寺、丗七世雄山和尚に就いて得度す。寛文一二年四月三日円寂す。時に寿八十一なり。越えて文化十五年六月三日勅して説到無説禅師の諡号を賜ふ。

上田重秀公とその父上田重安公(武家茶人・上田宗箇)

上田重秀公は芸州浅野家(現広島県)の家老上田重安(上田宗箇)の長男。寛永九年(1632年)に第三代将軍・徳川家光に旗本として取り立てられ、父・宗箇のかわりに江戸へ出仕した武士です。重秀公は、馬術に長け、馬術上田流の開祖と言い伝えられています。

重秀公の実父上田重安(宗箇)は、室町時代に活躍した戦国武将で、武家茶道上田宗箇流の流祖です。
茶道上田宗箇流は広島の地で代々受け継がれ、平成五年からは当山の書院が東京の稽古場となっています。

臨済宗妙心寺派について

重秀寺の本山 京都花園の「妙心寺」の歴史

臨済宗妙心寺派である当山の本山は、京都 花園の正法山「妙心寺」です。
花園天皇(1297-1348)がご自分の離宮を改めて禅寺とした妙心寺は、今からおよそ670年程前に開かれました。
花園天皇は大徳寺(京都市)を開かれた宗峰妙超禅師(大燈国師)について参禅(※1)。

花園法皇(※2)が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、 宗峰妙超禅師(大燈国師)は自分の弟子である関山慧玄禅師(無相大師)を新たに師とするように推挙しました。
法皇は建武四年(1337年)、「正法山妙心寺」と命した禅寺を開創、開山さまとしてその関山慧玄禅師(無相大師)を迎え参禅されました。

この年は、花園法皇の師である宗峰妙超禅師(大燈国師)がお亡くなりになった年です。
因みに花園法皇は貞和四年(1348年)11月11日52歳で崩御されました。
開山さまは、延文五年(1360年)12月12日に亡くなられました。

世界に広がる妙心寺

妙心寺にはたくさんの塔頭寺院(※3)があります。
現在46ヶ寺で末寺は日本および世界中におよそ3400ヶ寺あります。
皆様、是非一度、訪れてみてください。

※1 参禅 坐禅して禅を修学すること。特に、ある師の指導の下に禅の修行をすること。参学坐禅。問禅。
※2 花園法皇 1318年、花園天皇は後醍醐天皇に譲位して出家され、法皇となった。
※3 塔頭寺院 禅宗寺院で、開山または住持の死後弟子が遺徳を慕ってその塔の頭(ほとり)、あるいは同じ敷地内に建てた小院。

書院と茶室

禅のこころを、未来に活かす空間

重秀寺開創400年記念事業として平成二十四年に書院「聴松亭」と茶室「不求庵」が完成しました。
設計・監修は故中村昌生氏、施工は安井杢工務店による、都内では希少な日本の伝統的建築技術を用いた木造建築の書院と茶室です。
禅文化・日本文化を学び、伝える施設として活用していく予定です。

※一般公開はしていません ※故中村昌生先生、安井杢工務店は京都迎賓館日本建築及び平成の桂離宮修復などを手掛けられたかたがたです

書院 聴松亭

茶室 不求庵

書院と茶室を詳しく見る

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